2026/07/19
SPARKL

W杯のペドリのスパイクに使われたナノ素材。同じ技術が大腸の傷を縫わずに治す

W杯のペドリのスパイクに使われたナノ素材。同じ技術が大腸の傷を縫わずに治す

ペドリのスパイクに使われた微細構造の素材は、イリノイ大学の技術者が20年かけて開発した。同じ技術が、すでに数百人の患者の体内で臓器の接合を助けている。

昆虫の足から生まれた「濡れても滑らない」素材

ペドリのスパイクに使われたこのナノ技術の素材は、雨でも晴れでも泥でも一定のグリップを生む。顕微鏡でしか見えない微細な柱を表面に並べ、摩擦を意図的に設計しているためだ。

この素材は「ナノストライク+」と呼ばれる。開発したのは、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校で機械工学を教えるビル・キング教授だ。米ビジネス誌『Fast Company』の記事によると、選手が弱い力でドリブルするときはグリップが低く抑えられ、シュートの瞬間になると微細構造が食いつき、ボールに強い力と回転を伝える。摩擦が動きに応じて変わる、という発想がこの素材の核心にある。

着想の源は昆虫だった。虫の足には「付節(ふせつ)」と呼ばれる無数の小さな棘があり、植物を傷つけずに登っていく。キング教授の研究室は20年前、この「傷つけずに掴む」摩擦を工学的に再現し、水をはじきながら滑らない表面を作ろうとした。もともとは電子部品やエンジン内部の微細構造が目的で、スポーツとは無縁の研究だった。

なぜサッカーのスパイク素材が、大腸を修復できるのか

答えは摩擦にある。微細な突起が組織どうしを固定し、体が自ら傷口をふさぐのを助けるためだ。

キング教授は2006年、タイヤメーカー、ミシュランの元エンジニアだったラルフ・ハルスマンと出会い、この技術を実用化する会社「フーワキ」を立ち上げた。二人はこれまでに800以上の微細パターンを作り出してきた。その用途のひとつが医療機器である。

フーワキが手がける機器には、食道の手術後に縫合を不要にするチューブや、大腸がんの手術後に腸をつなぎ直す部品がある。従来なら消化管の経路を変えて人工肛門(オストミーバッグ)に頼るしかなかった場面で、この微細構造が組織を支え、治癒を早める。「微細構造が摩擦を生み、体が自分自身をつなぎ留めるのを助ける」とキング教授は説明する。すでに数百人の患者が、この突起を体内に抱えて日常を歩いているという。ピッチの上で使われる技術と、手術室で使われる技術が、同じ研究室から生まれている。

アディダスが2026年になって「昆虫の技術」を呼んだ理由

従来のスパイクはゴムの塊で摩擦を稼いでいたが、濡れると滑り、ドリブルのような弱い力の動きでは機能しなかったためだ。

アディダスが今年に入ってフーワキに接触したのは、まさにこの弱点を埋めるためだった。厚いゴムのブロックは、ボールが強く当たったときに「食いつきすぎる」という問題も抱えていた。「回転しながら向かってくるボールに、スパイクが急に強く掴みかかると、ボールは予測できない方向へ跳ねてしまう」とハルスマンは指摘する。

キング教授の微細構造は、選手の動きに合わせて摩擦そのものを変える。だからドリブルでは軽く、シュートでは強く、という切り替えが一足の靴の中で起きる。ナノストライク+を履くのは、イングランドのジュード・ベリンガムやスペインのペドリのような、繊細なボールコントロールを武器にする選手たちだ。決勝を観るとき、目の利くファンなら靴底の細かな筋を探せるかもしれない。

微細な突起が、次に体の奥へ広がる

キング教授の微細構造は、すでに数百人の体内で静かに働いている。次の舞台は、スタジアムではなく手術室のほうかもしれない。

米国防総省向けの装置や、エンジン内部の部品として始まった研究が、20年の時を経てワールドカップの決勝と、がん患者の腹の中にたどり着いた。誰を応援するのか問われたキング教授は、こう答えたという。「僕が応援するのは、靴だよ」。

昆虫が植物を傷つけずに歩くための小さな棘が、いまはピッチの上と、人の体の奥で、同じ仕事をしているのかもしれない。