2026/08/23
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ヒト細胞アトラスから子供が欠落していた。米研究者が3,850万ドルの空白地図を埋める

ヒト細胞アトラスから子供が欠落していた。米研究者が3,850万ドルの空白地図を埋める

米国立衛生研究所(NIH)は2021年、健康な子供の組織データベースを作る「dGTEx」計画に3,850万ドルを投じた。子供の遺伝子の働き方を臓器ごとに記録した、世界初の基準地図づくりだ。

なぜヒト細胞アトラスから小児が欠落したのか

「子供は小さな大人にすぎない」という思い込みが医学界に根強く、研究の投資も対象も成人に偏ってきたためだ。だが子供の体は、大人を縮小したものではない。

2017年、フィラデルフィア小児病院(CHOP)でバイオインフォマティクス(生命情報学)部門を率いるディアン・テイラーは、勤め先からほど近いペンシルベニア大学で、ある発表を聞いた。人体を構成する細胞をひとつ残らず地図化するという構想「ヒト細胞アトラス」のお披露目だった。壮大さに圧倒され、そして不安がよぎる。詳細をたどるほどに、この地図が成人だけを対象に設計されていると分かってきたからだ。「そこで頭の中の小さな警報が鳴りました」と、彼女は米技術専門メディアMIT Technology Reviewの取材に語っている。「また同じことが起きる、と」。

テイラーがCHOPに移ってからの3年間、小児を対象とする医学研究への投資の乏しさは、彼女を落胆させ続けてきた。医学界を支配していたのは、子供は大人のミニチュアだという見方である。しかし現実は違う。子供の細胞は、遺伝子の働かせ方そのものが大人と異なる。その差は、大人が難なく耐える薬に対して、子供が正反対の、ときに命にかかわる反応を示す原因になる。

子供の細胞は、大人と「遺伝子の使い方」が違う

DNAそのものは生涯を通じてほとんど変わらないが、その遺伝子を「いつ・どこで・どれだけ働かせるか」という発現のしかたは、成長とともに刻々と変化する。この差が、同じ薬への正反対の反応を生む。

遺伝子発現とは、DNAに書かれた設計図をもとに、体の中で特定の仕事をするタンパク質を作り出す働きを指す。組織を組み立てたり、信号を伝えたりと、その役割はさまざまだ。ヒトゲノム計画(2003年完了)は、どの遺伝子がどの病気に関わるかを結びつけた点で画期的だった。だがゲノムの地図は、いわば「全部品はそろっているのに組み立て説明書がついていないDIYキット」に近い。どの細胞が、体のどこで、その遺伝子をどう使うかまでは教えてくれない。

その手がかりが、子供では決定的に欠けていた。たとえば、子供では心臓に関わる遺伝子の発現のしかたが大人と違うため、一部の抗がん剤は腫瘍だけでなく、発達途上の心臓まで攻撃してしまう。結果として、生涯にわたる損傷を残しかねない。大人の臨床データだけを頼りにする限り、こうした落とし穴は見えないままだった。

発達の「空白地図」を埋める世界初のデータベース

テイラーが立ち上げに関わった「dGTEx」は、健康なまま亡くなった子供から、親の同意を得て提供された組織をもとに、遺伝子発現の「健康な基準値」を臓器横断で記録する初の試みだ。

2017年の発表を転機に、テイラーは動いた。ヒト細胞アトラスのボランティアチームに加わり、計画の目標をまとめた白書に小児の項を書き加える。さらに病院の垣根を越えて小児研究者を束ね、子供を研究する意義を訴える2019年の論文をまとめ上げた。「地面に旗を立てたんです」と彼女は振り返る。「なぜ私たちは、健康な子供の発達モデルを持っていないのか、と」。

この働きかけは実を結ぶ。2021年、米国立衛生研究所(NIH)は健康な小児組織の初の包括的データベースを目指す「発達期遺伝子型・組織発現プロジェクト(dGTEx)」に3,850万ドルの助成を決めた。提供された組織からは主要な臓器系すべてで遺伝子発現が読み取られ、テイラーのチームは家族歴やサンプルの詳細といった付随情報を整理・標準化する。こうして集まった情報が束ねられ、子供の遺伝子発現がどのような姿をしているのか、その基準線が初めて描かれる。dGTExのデータはやがてヒト細胞アトラスへと流れ込み、この巨大プロジェクトには今、テイラーたちの尽力で小児の章が加わった。

「彼女は大局を見て、こう言ったのです。私たちに必要なのは小児の腎臓や脳、免疫系を個別に理解することではない。小児の発達を丸ごと捉える視点だ、と」。ヒト細胞アトラス共同創設者のサラ・タイヒマンは、テイラーをそう評する。

「私たちは、少し年をとった子供にすぎない」

テイラーは自らのキャリアを「ランダムウォーク(酔歩)」と呼ぶ。5歳で母の医学書を読みふけり、12歳で図書館から物理の本を借りていた少女は、生物物理学で博士号を取得したのち、製薬大手ファイザーで希少疾患のデータ解析に転じ、やがて受精卵の染色体異常を調べる初期のプログラム開発に携わった。一見ばらばらな道のりを貫くのは、「同じ病気が、なぜ人によって違う出方をするのか」という一点への執着だという。

その問いに、子供という欠けたピースは深く関わっている。「私たちは、少し年をとった子供にすぎません」とテイラーは言う。「小児の側を無視することで、人は病気に介入できる貴重な窓を見逃していると思うのです」。

「小さな大人」という思い込みが解けたとき、これまで白いままだった発達の地図に、誰も気づかなかった介入の窓が浮かび上がってくるのかもしれない。