俳優で演劇講師のウィリアム・サットンは、シェイクスピアが残した全154首のソネットを暗記している。1首14行、合計2,000行を超える詩を、紙を見ずに諳んじられる人物は世界でもごくわずかだ。
「俳優仲間に証明したくて、154首すべてを覚えた」
暗記を始めた動機は、意外なほど素朴だった。「シェイクスピアを覚えられると、ほかの俳優たちに証明したかったんだ」と、サットンは米公共ラジオNPRのインタビューで打ち明けている。
オランダ・アムステルダムから取材に応じた彼は、俳優であり、詩を教える講師でもある。最も有名なソネット18番「君を夏の一日にたとえようか」は、英語圏では中学校の定番教材だ。多くの人が学校で一度は触れる。だが154首すべてとなると話は別で、「思いついたときは、これがどれほどの労力か分かっていなかった」と笑う。
彼が一番好きなのは、教科書の定番ではなく81番。自分が朽ち果てても、詩の中で相手は生き続ける、という一首だ。
30回唱えて、ようやく「自分のもの」になる
サットンにとって暗記は、機械的な丸暗記ではない。詩は何十回も声に出して初めて意味が腑に落ち、一度「自分のもの」になれば一生離れないという。
「初めて読んだときは、誰も何も理解できない。3回目でようやく、ぼんやり像が結ばれる。だがそこからさらに30回ほど繰り返して、やっと『あ、この部分が分かった』となる」。生徒に教える経験から、彼はそう語る。詩を諳んじるとき、頭と心はつながっていなければならない、というのが持論だ。
81番の最後の二行を初めて読んだとき、彼は思わず後ろを振り返ったという。「詩による不死を、これ以上なく完璧に予言した言葉に感じた。シェイクスピアがそこにいる気がして」。言葉が単なる記号ではなく、書き手の存在ごと自分の中に住みついた瞬間だった。
スマホで縮んだ注意力に、長期記憶は鍛え直せるか
現代生活は、私たちの注意力をすっかり痛めつけている。サットン自身もそれを認めるが、長期記憶という筋肉を意識して使うことは、その流れへのささやかな抵抗になりうる。
古代ギリシャのソクラテスは、文字を書くことが記憶力を弱めると警告した。人類はかつて、食べられる植物を覚えるだけでなく、叙事詩『イリアス』を何日もかけて諳んじていた。サットンは、いまの情報環境を「ファストフード」にたとえる。速くて、簡単で、そして満たされない。「いまの媒体は、本当に手軽すぎる」と嘆く。
彼は自分の記憶の仕組みを「AIに似ている」と表現する。「誰かが何か一言を口にすると、それがプロンプトになる。すると一気にスイッチが入って、あとは自然に言葉が出てくる」。皮肉にも、人間の記憶を弱めると恐れられるAIが、彼の頭の中の働きを説明する一番わかりやすい比喩になっている。
詩を諳んじることは「魂にいい」
サットンにとって暗記の効用は、記憶力が上がることだけではない。「シェイクスピアを覚えるのは、ただ純粋に魂にいいんだ」と、彼は言い切る。
事実、ソネットを暗記したことで、ほかのものも覚えやすくなったと彼は感じている。一度わがものにした言葉は、紙にもクラウドにも依存しない。必要なときに、いつでも胸の奥から立ち上がってくる。それは検索バーに打ち込んで取り出す知識とは、手触りがまるで違う。
紙にもクラウドにも預けず、頭の中だけで詩を生かし続ける。その時代遅れにも見える営みは、スクロールに削られた私たちの集中力にとって、案外しなやかな"筋トレ"になるのかもしれない。





