南極クルーズ船で何が起きたか
4月1日、アルゼンチン南端のウシュアイアから極地探検クルーズ船「ホンディウス号」が出航した。南大西洋を横断し、南極やセントヘレナ島などを巡る航路である。
乗船していたオランダ人男性が4月6日に発熱と頭痛を発症し、呼吸器症状が悪化した末に4月11日に死亡した。その後、妻を含む複数の乗客にも症状が広がり、最終的に3人が命を落としている。ワシントン・ポストの報道によると、WHOのテドロス事務局長は自らカナリア諸島テネリフェに入り、乗客の下船を指揮する異例の対応をとった。
WHOは、最初の感染者が乗船前のアルゼンチン滞在中か寄港地での活動中に、げっ歯類を介して感染した可能性が高いとみている。
なぜ「COVIDの再来」ではないのか
2020年のダイヤモンド・プリンセス号の記憶は、まだ多くの人に残っている。クルーズ船でのウイルス集団感染と聞けば、あの光景が脳裏をよぎるだろう。しかしWHOは、今回の状況は根本的に異なると繰り返す。
今回の原因ウイルスはハンタウイルスの一種「アンデスウイルス」だ。ハンタウイルスは通常、感染したげっ歯類の尿や糞への接触で広がるが、アンデスウイルスは限定的なヒト間感染も確認されている数少ない株でもある。WHOの感染症・パンデミック管理ディレクター、マリア・ヴァン・ケルクホーフェは「このウイルスはCOVIDやインフルエンザとは広がり方がまったく異なる」と説明した。
決定的な違いは感染経路にある。COVIDが短時間の空気感染で爆発的に拡大したのに対し、アンデスウイルスは長時間の濃厚接触がなければ感染しにくい。WHO緊急対応部門のアブディラフマン・マハムド部長は「大規模な流行は予想していない」と明言した。CDCも「米国民へのリスクは極めて低い」との声明を出している。
ただし、潜伏期間が最大6週間と長い点は警戒を要する。初期症状はインフルエンザに似ており、重症化すると呼吸困難に至る。特効薬もワクチンも存在しない。なお、WHOはパンデミック時に一部で支持を集めたイベルメクチンがハンタウイルスに有効だとする主張を明確に否定した。
6か国にまたがる帰還オペレーション
スペイン政府は欧州各国と連携し、乗客の本国送還を進めている。複数の欧州諸国が自国民の帰還用チャーター機を手配したとロイター通信が報じた。
米国側の対応も迅速だった。CDCは疫学者と医療専門家のチームをカナリア諸島に派遣し、米国人乗客一人ひとりの曝露リスクを評価する。さらに別のチームがネブラスカ州の空軍基地に展開し、帰国者の受け入れ態勢を整えている。
ネブラスカ・メディシンが運営する国立検疫ユニットは、かつてエボラやCOVID初期の患者を受け入れた実績を持つ米国唯一の連邦検疫施設だ。CEOのマイケル・アッシュは「まさにこうした状況のために設計された施設であり、地域社会へのリスクはない」と強調した。米国では現在、6州で下船済みの乗客のモニタリングが続いている。
6年前にはなかった備えが動き始めている
特効薬がない以上、早期発見が重症化を防ぐ最大の手段となる。CDCによれば、初期のインフルエンザ様症状の段階で適切な支持療法を受けることが、重篤な合併症を回避する鍵だ。
船上では現在、WHOとオランダ、欧州疾病予防管理センター(ECDC)から派遣された医師団が全乗客への個別聞き取り調査を進めている。追加の発症者は報告されておらず、クルーズ運航会社によれば船内の雰囲気は「前向き」だという。
COVIDの経験は、世界の公衆衛生インフラを確実に変えた。国際的な検疫体制の整備、リアルタイムの疫学情報共有、帰還オペレーションの迅速化——6年前には存在しなかった仕組みが、今回は初動の段階から機能している。未知のウイルスへの恐怖は自然な反応だが、かつての痛みから学んだ仕組みが、すでに静かに動き始めている。

