動物では「奇跡」、ヒトでは「微妙」
NAD+(ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)は、ミトコンドリアのエネルギー産生やDNA修復に深く関わる分子だ。加齢とともに体内レベルが低下することが確認されており、老化関連疾患への関与が疑われている。この仮説に基づく動物実験の結果は目覚ましかった。ミトコンドリアの機能改善、筋力や運動パフォーマンスの向上、代謝異常や炎症の減少など、効果は多岐にわたる。
ワシントン大学人間栄養センター所長のサミュエル・クラインはNPRの取材で「齧歯類ではNAD+は奇跡的だ。ヒトではそうではない」と端的に語った。
ヒトの臨床試験はまだ初期段階にある。NAD+の前駆体であるNR(ニコチンアミドリボシド)やNMN(ニコチンアミドモノヌクレオチド)を使った小規模試験では、前糖尿病の女性やパーキンソン病の初期患者など特定の集団で有望なデータが出た。だが代謝全般への効果を検証した試験では、動物実験ほどの成果は確認されていない。デラウェア認知老化研究センター所長のクリストファー・マーテンスも「数週間のサプリ摂取で血中NAD+レベルを有意に上げられることは示された」と認めつつ、「すべてのデータは予備的であり、大規模試験での再現が不可欠だ」と慎重な姿勢を崩さない。
市場が科学を追い越すとき
こうした研究者の慎重論とは裏腹に、NAD+関連製品の市場は急拡大を続けている。経口サプリ、注射、IV点滴と形態はさまざまで、セレブリティやバイオハッカーの支持を背景に「細胞レベルで若返る」「ミトコンドリアを活性化する」といった謳い文句が広がった。
問題は、市場に出回る製品の多くが、臨床試験で実際に検証された形態や用量と一致していない点だ。NAD+を直接経口摂取するサプリも販売されているが、消化管での吸収効率には疑問が残る。IV点滴は1回あたり数百〜数千ドルに達するものの、この投与経路の効果を検証した大規模試験は存在しない。
ブリガム・アンド・ウィメンズ病院ボストン・ペッパー老化研究センター所長のシャレンダー・バシンは「仮説としては非常に魅力的だ」と認めたうえで、「NAD+を増やすことの健康上の効果は、大規模なヒト臨床試験ではまだ確立されていない」とNPRに語っている。
ビタミンB3の教訓と、いま選べる手段
見落とされがちだが、NAD+は体外から直接補充しなくても体内で合成できる。私たちの細胞はNAD+を常にリサイクルしており、食事中のビタミンB3やアミノ酸トリプトファンが原料になる。1900年代初頭に流行したペラグラという疾患はビタミンB3欠乏によるNAD+低下が原因だったが、栄養改善によって克服された歴史がある。
つまり、NAD+を底上げするための最も確実で安価な手段は、十分なビタミンB3を含む食事だという見方もできる。もちろん、加齢に伴う低下を食事だけでどこまで補えるかは別の問いだ。だからこそマーテンスらは大規模臨床試験の準備を進めている。
「マウスで効いたものがヒトに効かないのは珍しくない」とマーテンスは言う。裏を返せば、ヒトでも効く可能性はまだ否定されていない。100年前にペラグラを克服したのは高額な治療薬ではなく、地道な栄養学の基礎研究だった。NAD+の「奇跡」がサプリの棚から臨床のエビデンスへ移るかどうかも、いま進行中の試験データの蓄積にかかっている。

