転倒で救急搬送された男性の血中エタノールは363mg/デシリットル、血中アルコール濃度に換算して0.363%。運転の法定基準を4倍以上も上回る値だが、本人は下戸で、直前まで一滴も飲んでいなかった。
なぜ夜になると酔ったように意識を失うのか
原因は飲酒ではなかった。だが数年のあいだ、医師たちは脱水やてんかん、認知症を疑い、真の診断にたどり着けなかった。
元米海兵隊員のフィル・アンダーソン(69)は、24年の軍務を経て国土安全保障や研究の仕事に就いた人物だ。20代から30代にかけてマラソンを13回完走し、アイアンマン・トライアスロンもこなす頑健な体の持ち主だった。その彼に異変が始まったのは2012年、カトリックの助祭になる訓練を受けていた頃だという。
普段は穏やかな彼が、夕方になると人が変わったように理屈っぽく攻撃的になり、やがてソファで眠り込む。妻のハイジさんは認知症を疑い、自分の心を保つためにセラピストのもとへ通った。かかりつけ医は脱水だと説明した。彼が幹線道路を逆走したこともあった。神経内科医はてんかんの発作を疑ったが、検査では原因を特定できない。2017年にボストン近郊へ移ると、発作はさらに頻繁になり、夫妻は友人との夕食すら避けるようになった。
血液検査が突きつけた「基準の4倍」
決定打は、転倒後の救急搬送で行われた血液検査だった。血中アルコール濃度0.363%という異常な数値が、長年の謎を解く入口になる。
2020年8月のある夜、犬の散歩から戻ったハイジさんは、ポーチで宙を見つめたまま立ち尽くす夫を見つけた。彼は家の中でよろけ、コーヒーテーブルに頭を打ちつけてしまう。救急外来での血液検査が示したのは、血中エタノール363mg/デシリットル。泥酔状態と呼べる値だった。
だが彼はほとんど酒を飲まない。しかも数日後には前立腺の手術を控え、酒は一滴も口にしていないと言い張った。担当した救急医のエリザベス・オブライエンは、正規の救急医になってまだ2カ月目だったという。彼女は飲酒を隠さず打ち明けるよう促したが、彼が繰り返し否定するのを見て、ふと「本当のことを言っているのかもしれない」と考えた。そしてオブライエンが伝えたのが、近年になって医学界で受け入れられつつある一つの病名だった。
腸が自前で「ビール」を醸造する
自動醸造症候群(オート・ブルワリー・シンドローム)では、腸内の微生物が糖質を分解する過程で、異常に多いエタノールを作り出す。本人は一滴も飲まないのに、体の内側で酔いが醸成される。
つまり、彼らの腸は自前でビールを仕込んでいたようなものだ。糠床や甘酒が糖を発酵させて別のものへ変えるのと同じように、腸内細菌が炭水化物をアルコールに変えてしまう。ハイジさんが非営利団体に連絡を取ると、夫妻はカリフォルニア大学サンディエゴ校の消化器専門医バーント・シュナーブルにつながった。シュナーブルはこの症状の疑いがある人々を対象に研究を進めており、アンダーソンは2020年秋、その臨床試験に加わった。
診断を確かめたのは、ニューヨークのリッチモンド大学医療センターに勤め、患者から「ドクター・ウィック」と呼ばれる消化器専門医だ。彼は2019年にこの症候群の症例研究を発表している。ウィックが行ったのはブドウ糖負荷試験だった。アンダーソンが糖分を含む液体を飲むと、酒を一滴も飲んでいないのに血中アルコール濃度が跳ね上がる。医師はそのうえで消化管から検体を採取し、体内で何が起きているのかを一つずつ確かめていった。詳しい経緯はワシントン・ポストの報道が伝えている。
「仮病」と疑われた症状が、名前を得るまで
かつては隠れ飲酒や仮病と誤解されがちだった症状に、いまは診断名がついている。医学界で少しずつ認知が広がり、検査法も整いつつあるようだ。
アンダーソンの道のりは、原因不明の不調を抱える人にとって示唆に富む。血液検査のたった一つの数値が、数年におよぶ誤診の連鎖を断ち切るきっかけになった。認知症でも、てんかんでも、隠れ飲酒でもない。答えは、彼自身の腸の中にあった。
一滴も飲まずに酔う元海兵隊員の体が、ようやく医学の言葉で説明されはじめている。似た症状に長く戸惑ってきた誰かにとって、その診断名は、暗がりに差す小さな道しるべになるのかもしれない。





